7.25.2008

Group44


かつてアメリカにグループ44というレーシングチームがあったことを皆さんはご存知でしょうか?このレーシングチームは、コダックのセールスマンだったボブ・チューリアスさんと言う人が1960年代はじめトライアンフTR3を駆ってSCCAのスポーツカーレースに挑戦したことから始まりました。TR3で最初に優勝した時、トライアンフは無視したそうですが、TR4に乗り換えて連勝するようになると、トライアンフも無視出来なくなりチューリアスを支援したため、4年連続でタイトルを獲得したそうです。この活躍によって1965年チューリアスはビジネスとしてレーシングチームの運営に乗り出し、会社名は彼のゼッケン44番にちなんでグループ‘‘44’’と名付けられました。その後しばらくはブリティッシュレイランド(BL)のトライアンフとMGスポーツカーを駆って活躍しました。
1974年BLは、V12エンジンを積んだジャガーEーType Sr.3をスポーツカーレースで走らせるため、グループ44を指名しました。グループ44のジャガーV12Eーtypeは完成が遅れシーズン半ばに登場しましたが、その後素晴らしい活躍をしました。しかし1974年秋になって急に1975年でEーtypeの生産を打ち切ることが決定し、代わって大柄なXJSが、マーケットに送り込まれました。BLのセールス担当副社長だったマイケル・H・ドールは、スポーツカーレースに理解のある人物で、グループ44との契約は更新され、XJSのレース活動を支援し1976年~1981年までグループ44XJSは、BLのワークスチームとしてTransAmシリーズに参戦に大活躍しました。(1977年・1978年シリーズチャンピオン)

TransAmタイトルを勝ち取ったチューリアスとドールは、新しいカテゴリーのIMSAに注目しましたが、その頃のジャガー社は不振に喘いでいて、当時の社長のボブ・ナイトはレース活動に否定的でした。しかし、1980年4月にジョン・イーガンが社長に就任しました。イーガンはツーリングカーレースとルマンでジャガーの活躍を望みましたが、改革を始めたばかりでグループ44への支援をすぐには決心できませんでした。ところが、チューリアスは、1982年にジャガースポーツカーをIMSAで走らせるため正式な支援の約束がないままプロジェクトをスタートさせました。

ロータス78以降最先端のレーシングカーは、ウィングカーであることが成功の条件でした。チューリアスはXJR5ウィングカーのデザインをリー・ダイクストラーに依頼。イギリスのウィリアムズGPの1/5風洞を使用する約束を取り付け開発がスタートしましたが、300kgに達するV12エンジンをどう搭載するかなど数々の課題をクリアーしつつ、XJR5は1982年8月に第14戦ロードアメリカでデビューしました。
              



XJR5は、車重が重く後ろ寄りのダウンフォースによるアンバランスな空力特性であるという欠点を抱えていましたが、1983年の第3戦セブリングでついに優勝し、その年はシリーズ2位を獲得しました。


そしてチューリアスは、1984年大幅な改良を加えたXJR5Bで、ようやくジョン・イーガンよりルマンでの支援の約束を取り付けサルテ・サーキットのスターティンググリッドにジャガーXJR5Bを登場させました。ポルシェの大群に見飽きたスポーツカーファンはグループ44の挑戦を大歓迎しました。ルマンにおけるグループ44の闘いをピット上のテラスから見守っていたジョン・イーガン、ジャガー社会長は、栄光をその手に奪還するため正式にジャガーのワークスチームをルマンに復活させる決心をしました。


しかしながら、その仕事は本家イギリスのトム・ウォーキンショーに委ねられることになりました。それでもグループ44の功績は否定するものではなかったため、IMSAでの活動はその後も支援は行なわれました。



未確認情報ですが、来年ジャガーがルマンに復活するという話があるそうです。本当ならば、大変嬉しいことなのですが・・・。